プロフィール

プロフィール

伊藤 佑一(いとう ゆういち)
総合事業サポート株式会社 代表取締役
昭和62年(1987年)12月24日 生まれ
大阪府堺市出身

高校を中退後、オートバイ販売業で独立。軌道に乗り事業拡大するも、経営の甘さから倒産からの自己破産。店舗・設備・信用の全てを失い人生のドン底に転げ落ちる。そしてゼロから這い上がるため、中古のノートパソコン1台で、Webマーケティングの専門知識を習得して、倒産から2年半で再起業に成功する。現在は自分の実体験のノウハウをいかした、Web集客・独立起業などの分野を得意としたコンサルティングを提供しています。

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経歴

2006年(18歳)高校を2回中退して、アルバイトをしながら適当に過ごす。
2007年(19歳)オートバイのネット販売を始める。
2010年(22歳)個人事業主として『伊藤二輪工業』を創業。
2015年(27歳)経営不振により倒産。自己破産したことにより、事実上の廃業。鉄工所に就職するも転々とする。
2016年(28歳)鉄工所で習得した溶接技術で、オートバイのカスタムパーツを製造することを決意して、パーツの溶接修理からスタートするも、好きな事だけでは家族を養えないことを、再度痛感する。
2017年(29歳)
2018年(30歳)
2019年(31歳)
2020年(32歳)

ここまでの経緯

※長文なので興味のない方はスルーして下さい

夢を持つのは、とても素晴らしいですが、夢を叶えて、夢から覚めた後の現実からが、実は本当のスタートだったりします。

結婚でも『結婚式』という憧れていた人生最大の晴れ舞台が終わってからが、結婚生活という本当のスタートであり、『受験』や『就職』などもそれに近いですよね。

『起業』もそれらと全く同じで、独立起業までのプロセスを乗り越えて、ようやくビジネスというスタートラインに立てるという感じです。

そんな僕は、19歳から副業からビジネスを始めて、22歳で起業して27歳で倒産して自己破産しました。

そこから人生のどん底に転げ落ちましたが、なんとか這い上がり30歳で再起業して現在に至ります。

そんな波乱万丈でノーフィクションの経緯と生い立ちを今回、包み隠さずお話いたします。

ほとんどの人が自分が失敗したことなんて、絶対に公開しないと思います。

なので倒産しても隠して、普通に就職して働いている人は案外多いですよ。笑

そして、世の中のビジネス書や情報には、成功事例は腐る程転がっていますが、リアルな事業失敗の情報って希少だと思うので、これを読んで頂くことで精神論では絶対に通用しないビジネスの本当のリアルな厳しさなどがわかって頂けると思います。

将来、独立起業を夢見ている方、またはもうビジネスオーナーとして活躍している方に少しでも役立つ情報になれば幸いです。

ビジネスを始めたキッカケ

大阪府堺市にて伊藤家の長男として誕生した僕は、こう見えて、幼少期はすごく人見知りで人とコミュニケーションをとるのが苦手でした。

協調性も無く、学生時代は授業中は眠たくないのに寝てばかり。

そして案の定 高校1年目にして留年確定・・・

中退して働こうと思いましたが周囲に大反対されて一年遅れて、違う高校へ入学するも、ここでも上手く馴染めず半年で退学してしまいます。

高校中退後、とくにやりたい事も無かったので、ろくに定職にも付かず、学生時代からしていた郵便配達のアルバイトを継続。

郵政公社はアルバイトでもボーナスがあるなど待遇はすごく良く居心地が良かったので、特に不満もなく働いていました。

しかし周りの友人は、高校を卒業して大学に進学、または有名企業への就職などの話を耳にする様になり、劣等感などの感情を抱くようになってきました。

『中卒の自分に何ができるのか?』と自問自答しながら、ただ郵便物を配る毎日の中、ある日配達しながらある光景に閃きました。

毎日、同じルートを郵便配達していると、街の風景や人・モノの動きがわかってきます。

そしてオートバイが大好きだった私は、配達先で放置しているバイクを見つけそこのオーナーに聞いてみるとオーナーは『もう乗らなくて処分したいんだけど面倒でそのまま』だと言いました。

私は、ダメ元で個人的に売ってくれませんか?とお願いすると、なんと喜んでタダで譲ってくれたのです。

そしてまた違う放置バイクのオーナーに同じよう声をかけたところ、またこれも喜んでOKしてくれました。

そのタダ同然売ってもらったバイクを家のガレージで修理して、自宅のパソコンのヤフーオークションで、なんとなく出品してみました。(2006年当時は今に比べてネットで買い物すると言う習慣が無かったため)

すると買い取った値段の5倍以上の値段で落札された時この瞬間 『これだ‼︎』と頭に衝撃が走りました。

それからは、毎日事務的に配達をすることから一変し、放置バイクを見つけては、配達中に声をかけて交渉。

仕事が終わってからレンタカーやコー○ンの軽トラを借りて引き取りにいき、自宅の車庫で修理してヤフーオークションに出品すると言うことを繰り返しました。

そして数をこなしていくと、自宅の車庫では手狭になり、貸ガレージを借りて、そこでアルバイトが終わってから、懐中電灯の明かりの中、毎日夜中まで修理・整備を行なっては、バイクの仕入れと販売をしてお金を稼いでいました。

それから何十台と販売していくうちに、買ってくれたバイクのお客さんから修理などのアフターサービスもお願いされ始め 手書きで『伊藤二輪工業』と書かれたベニヤ板をぶら下げたガレージにもお客さんがつき始め、修理や整備にも通ってくれるようになってきました。

それが私の副業から始まったビジネスのキッカケでした。

無くても嘆かず知恵を絞れ

独立当初は、家賃15000円の車がやっと一台入る小さなガレージからスタートしました。

電源、電灯、水道もトイレも無かったので、電灯は車のバッテリーを改造して蓄電システムを自作したり、電動工具などは発電機をつかって、それなりに創意工夫してお金が無いなりに対処していました。

トイレは建築現場用のスカイトイレという簡易式トイレを使用して、『大』の場合はコンビニや病院のトイレを上手く使い分けたりしていました。

電灯もトイレも無いガレージなので、仕事はバイクの出張修理をメインに仕事を取り、少しずつ事業を成長させていきました。

その気になれば何でもできると言うことを実感した時でもありました。

それがいまの根拠の無い自信に繋がっているのだと思います。

そして、売り上げから30年落ちのボロッボロの軽トラ、三菱ミニキャブ550ccを25000円で買って自分で、修理したりと、少しずつですが事業として成り立って行きました。

そして必死で営業や出張修理にも行き、お客さんなども増えて行き、バイクの仕事の方が忙しくなっていき、19歳の時に独立を決意。

そして稼いだ現金60万円ほどを握りしめて、不動産屋に飛び込むも未成年の為、親権者の同意書がいると断わられて諦める。(当然両親は反対)

それから気を取り直して、アルバイトとガレージでの副業を継続して、2010年の22歳の時松原市天美北にバイクショップ 『伊藤二輪工業』 として正式に独立開業。

事業拡大と短い黄金時代

その後、2011年には金融機関から融資を受け、松原市天美東に15坪のテナントに移転し一気に事業拡大。

立地条件を徹底的にリサーチして、阪南大学前の大学通りにある店が、ズラッと並ぶ小さな商店街のテナントだったのとガレージの時に出来たお客さんや周りの協力もあり、開業後すぐに売上は好調で大盛況しました。

地域密着・競合他社がいない・メイン顧客が大学生で4年に一回数百人単位で入れ替わるため顧客が絶えないと言う好条件が当たったと見ています。

そして、事業拡大の味をしめた私は、もっともっと売上を上げて事業を大きくしたいという欲望だけが膨らんでいき、銀行からドンドン追加融資して、その借りたお金で大量に車両を仕入れて流れ作業の様に毎日大量にネットで販売しました。

もちろん店頭販売でも販売していましたが、インターネットは店頭販売に比べると利益が少なかったもの市場が大きいため、出せば出すだけその分売れたので、薄利多売であっても、かなり効率的に稼ぐことができました。

仕入れ・販売・修理・経理など事業の業務の全てを私一人でしていたので、毎日朝から夜まで忙しかったですが、まだ23歳だったし多少無理しても全然余裕でした。

もちろんその分売上として全部かえってきました。

勘違いからの散財と急降下

立地の読みが当たり移転後すぐに大忙しの毎日の中、色んな業種の営業マンの人たちが、契約をお願いしてくることが増えてきました。

開業当初は、自分から何件も契約修理などの飛び込み営業に行った時、『ガキのくせに世の中舐めるな』と、鼻で笑われ馬鹿にされ悔しかった自分を思い出し ここで自分は、大きな勘違いをしてしまいました。

『世の中って言うのは年齢や学歴では無く、お金がある奴が絶対的に偉いんだ』と。

その時はなんせ売上はそれなりありましたし、店を開けていれば必ずお客さんが来てくれました。

正直 金は稼げば湧いてくると錯覚していました。

それを勘違いして気が大きくなり全部無駄遣いに使っていたのが最大のしくじりでした。

160万円のフルレストアフルチューンのサニトラを全く必要無いのに経費で購入したり、ミニバイクレースにも意地になって馬鹿みたいに金をつぎ込んだりと、節約してコツコツ事業を成長させていた頃は忘れて、金遣いは次第に荒くなってきました。

そしてその勘違いから、商売の歯車は狂い始めました。

店舗オーナーと口論になって、せっかくの好立地の店を移転したり、目先のお金から詐欺にあったり、銀行員の口車に乗って追加融資で無駄な融資を受けたりと、ゼロから始めた頃の初心を忘れた気持ちがサービスにも影響して、気付かないスピードで売上は少しずつ落ち込んでいきました。

そして店舗オーナーと騒音問題で揉めて、好立地だった大学前の月145000円だったところから、騒音トラブルを懸念して人通りが少なくて、騒音を出しても問題の無い小さい貸し工場へ移転します。

当然、立地条件の悪い所に移転したものの、夜に音を立てても誰も文句を言わないし、それまでのお客さんがいたので仕事はまぁ忙しくしていました。

しかし当然のごとく一元の新規のお客さんが激減しました。

しかも貸し工場だったので、通り客に見える展示車の並べるスペースが無くて、車両の販売台数も売り上げも超激減しました。

移転した直後は、騒音も排気ガスも気にしなくて、家賃が10万円も浮いたと楽観的に考えていましたが、10万円の何倍以上の損失を選んでしまったこと。

そして店舗ビジネスは、いかに場所が重要かと身をもって痛感し、その選択と決断の失敗に少しずつ気付き始めました。

月に少なくても店頭で10台以上車両が売れていた時に比べ、移転後は全然車両が売れなくなりました。

それでも修理や配送、大阪府警、新聞屋さんや法人事業所などの原付の契約修理なども請け負っていましたので、仕事は忙しかったですが、自分の経営に対する甘さと、金遣いの荒さで、当時の生活水準が下げられずに、浪費と散財が影響して赤字が目立ってきました。

信用を失った最大の過ち

そして今考えると、これが最大の失敗原因だと断言できるのですが、当時は売り上げが上がらない焦りから、血迷った発想をしてしまいます。

朝8時〜12時までアルバイトをしてから、午後からバイク屋をして、なんとか立て直しを図ろうとしたのです。

当たり前ですが、月数万円程度のアルバイト代では家賃の足しにもならず、思いっきり逆効果になりここから、一気に急降下していきます。

当然の結果、営業時間の少なくなった分、既存のお客さんの信頼もガタ落ち。

バイト中は電話も出れないし、お客さんは、他へ流れてしまい売上は、更に激減し結果 バイトをしたことにより大出血してしまいます。

一度しくじると手遅れになる

それに伴って、色々と対策を実践してきましたが、一度狂った流れは、そう簡単には変えられず、全てが空回りして失敗に終わります。

その色々と実践するのにもお金が掛かりますので負の連鎖がさらに加速していきます。

そんな負の連鎖が2年続き、いよいよ資金繰りがまともにできなくなってきます。

現金が無くなり銀行の返済などが少しずつ滞りはじめ、自転車操業に陥ります。

そして移転当時は、二件借りていた工場も次第に経営が悪化していき、一件だけにして家賃25000円してもらう程、切羽がつまってきました。

そんなその場しのぎの誤った経営に気付かないまま、ついに現金が無くなりキャッシュアウト。

しかもその27歳の時に、長男が誕生します。

子供が生まれたを活力にして、なんとか再起を目指して店の営業を続けるも、焦りとプレッシャーで、接客サービスの質は最悪。

しかも資金が無いため修理を受けても、部品などの仕入れもできずに掛け持ちのアルバイトの収入と、本業のバイク屋の現金で店と生活を回していました。

全盛期の頃は月の売り上げが〜120万くらいあったのが、ここまで衰退してしまいました。商売というものは、本当に難しく、お客さんは甘く無いことを身に染みて分かった時でもありました。

現金が底をつき倒産 そしてついに嫁に生活費が毎月渡せなくなってくる。

儲かっているから大丈夫と嘘をつき安心させ、クレジットカードで現金を借り生活費を渡す月日が続くが、ついにクレジットカードも停止する。

カードが限度額に達するとまた違うカードを新規作成してキャッシング。

そしてまた・・・の繰り返しで数枚のクレジットカードで多重債務に陥る。

そして、正常な判断ができなくなり、最悪の行動をし始める。

自分の店の工具や展示車を損してでも売って、現金を作り始める。

まさに自分の腕を自分で食う状態で、当然商売道具を現金に換えていっているので、仕事はできなくなる悪循環。

最後には嫁が蓄えていた貯金や結婚祝い金、出産祝いなどに手を付けるまでに生活は苦しくなる。

借金で借金を返し、月末の経費と返済金と生活費を搔き集める日々に、精神的に崩壊していきます。

そして借金は総額1000万円以上になっていた頃に、子供の病院代たった500円すら財布に無く支払えなかった時、自分の中で、何かが切れて廃業を決意。

しかし廃業したからと行って何も変わるわけが無く世の中はそんなに甘くは無かった。

むしろ店をたたんだことにより事業収入が激減する。

もう店舗での商売はできなくなってしまったので、それを補うために早朝アルバイトを探して、運送会社の積み荷のアルバイトを週6で早朝4時~7時まで重い荷物をトラックに積んでいく。

そしてヘトヘトになる間も無く、8時から12時までは病院の手術室の清掃のアルバイトをしてまた昼から夜までは、最低限の工具で自宅の車庫でバイク修理をする日々。

もちろん正社員で就職活動をしていたが、そんなすぐには給料は入らない。 それを貸し側は待ってくれるわけもない。

そして廃業していることに気付いた貸した人たちは、一気に回収モードに入り、余計に最悪な状況になっていく。

朝から晩まで返済の電話が毎日鳴り止まず、携帯電話が一日着信画面のままで何の操作もできなくなり何度か携帯をへし折った。

しかし携帯をへし折ったら、次は自宅にも銀行員が訪問してくる。

最後はノイローゼ気味になってしまい、夜逃げか自己破産か一家心中かの選択を迫られ、自己破産を決意。

破産者と呼ばれた男の這い上がり

自己破産した代償に、今までゼロから築き上げてきた店やお客さん、社会的信用など全てを失い、一気に人生のドン底まで転げ堕ちました。

周りにいた人も一瞬で離れていきました。

しかし凹んだり反省している暇も与えられず、家族を食わすため、生活を安定させるために、掛け持ちしていたアルバイトを辞め27歳で人生初の就職活動をして就職します。

破産して1000万円の借金は無くなったものの、弁護士に払う手数料 約70万円のお金は払わないといけません。

事業で破産すると、管財人が付いてて、お金の動きや財産を隠していないかの監視のため郵便物は止められ全ての個人情報を開示しないといけない。

自業自得なのですが、手取り17万円にも満たない給料で4万円返済するので、13万円ほどしか無く、それで5万円の家賃を払って、残り8万円で家族3人生活をしていました。

しかし意地でも30歳までには 『もう一度起業して必ず取り返す』 と言う執念で、工場の肉体労働に明け暮れました。

しかし毎月20万円にも満たない給料では、這い上がるどころが家族を食わすので精一杯のため、転職を繰り返しました。

そして、正社員というブランドは捨てて、溶接工として請負契約をしてくれる人材会社を探し入社。

安定は無いもの、単価が高く、請負業務のため労働基準法が適用されないので、好きなだけ働くことが出来たので、どうせ再起業を目的としている僕には、とても好都合な条件でした。

これが実際の明細です。 出勤日数29日で月の休みは2日だけです。 ここの人材会社は外注にでも有給をくれた優良な会社だったので休日は全て有給消化していました。

まぁ派遣先もブラック企業と言うもの残業代はしっかりくれたので、毎日8時間+残業5時間、働いて月20万円貯金すると決意して、『金の鬼』になり死ぬ気で働きました。

そしてついに動き出す

商売人で生きてきた自分には、労働でお金を稼ぐことに限界を感じ、自分の商品を作って販売することを考えます。

その時、製造業で溶接工をしていた私は、この習得した金属加工の技術を活かしてバイクのカスタムパーツメーカーを自分で立ち上げて商品開発をしてそれをECサイトで販売しようと決意します。

そして廃業してから2年過ぎたあたりの2017年に自社ブランドの『ジーク』を立ち上げる。

もちろんまだロゴを作っただけで何も商品は作れていない。

そしてもう一度、初心に帰り、原点から再スタートしようと思い、以前借りていたガレージ工場を再契約。

家賃は25000円。サラリーマンをしながらなので週末起業になるが、月25000円ならなんとか維持できる。

そして事業計画を妻に熱弁して、なんとか承認も得た。(笑)

そして2017年からジークレーシングは本格的にスタートする。

もちろんこの事業が軌道にに乗れば、脱サラしてもう一度再起業する予定で希望に満ち溢れていた。

とりあえず、自分で製品を作るのであれば、機械や設備は必須である。

無ければ設計図だけ作って外注すればいいのだが、そんな金やコネなど何もないし、ついこの前に破産しているので、闇金くらいしか金を貸してくれるところも無いので、自分で一から商品開発することに。

とりあえず、コツコツとヤフオク、メルカリ、中古機械屋で安いボロボロの工作機械を探し揃えていきました。

設備を30年落ちの骨董品のようなアナログTIG溶接機を10万円で購入したり、金属の材料を加工できる機械なども少しずつ働いて稼いだお金から慎重に購入していきます。

SNSや過去のお客さん、今までのバイク関係の人脈をフルに使って再起を賭けた活動をスタートさせました。

這い上がるも失敗

そんな感じで再起をかけた週末起業はスタートしたのですが、結論から申しますと、再起できるほどは儲からなかった…

これといった商品開発は全くできず、窓の防犯用の柵を制作したりと目標とはかけ離れた仕事を繰り返す。

そう。 また失敗したのだ。

そんな少ない設備と資本で、しかも週末だけという中途半端な甘い経営で、製造業などできるはずも無かった。

悪あがきでビジネスをしてはいけないと思い、傷口が広がる前に撤退することを決意。

再起を賭けたビジネスも1年足らずで失敗に終えることになりました。

そして死ぬ気で貯めに貯めた150万円をも一瞬で溶かしてしまったので、機械などはヤフオクで売り払って借りた工場は返しました。

そして何もかも無くなってしまった私は途方にくれてしまいます。

バイクしかしてこなかった自分は、修理かモノづくり関連しかできなかったのです。

対象物と設備と工具と場所が無ければ、自分の能力が何も発揮できなかったのです。

まさに工具や設備が無ければ何にもできない人間でした。

しかもその工具や設備は売り払ってしまったため、またゼロになってしまいました。

三度目のチャレンジからの出会い

そしてその何にもできない当時に自分に残っていたのは、おもちゃみたいな中古の糞スペックのノートパソコンでした。

もう自分には、このノートパソコンしか無かったため、これでできる商売をするしか無いと気付きました。

そして、そこからプログラミングやら動画編集やらと、パソコンできるスキルの書籍を古本屋で買い漁り猛勉強しました。

HTML、CSSなどのWebサイト制作の基礎を学んだり、無料の動画編集ソフトを無理矢理インストールして使ったり、休日はワードプレスを覚えるために、ストアカなどでセミナーを探して、使い方を必死に学びました。

そして半年ほどでホームページを作れるようになってからは、副業フリーランスとして単価が安くてもできる仕事は全て貪欲に数をこなしてきました。

そして色んな人に声を掛けてホームページを作らせてもらいました。

それを実体験したことにより、仕入れや固定費がゼロでノーリスクでパソコン一台で効率的にどこでも仕事ができる形態に心の底から惚れ込み、その事業形態に集中特化することを決意することに決めました。

物販や商店経営などのリアルビジネスを経験していた僕にとっては、ネットとパソコンだけでお金を生み出せるのは魔法にしか見えませんでした。

これが私が工具からPCに持ち替えた大きな理由でもあり、大きな分岐点でもあります。

無料で手に入れたacerの12インチのノートパソコンですがストレージが30GBぐらいしか無い糞スペックでしたが、創意工夫してカスタマイズして2年間はワードプレスや動画編集までフル活用した最高の相棒でした。

そしてそのノートパソコンのおかげで、現在の会社の資本金300万円を生み出し、2015年6月に倒産して3年目の2018年6月にどん底から這い上がり再起業に成功いたしました。

さいごに

最後までプロフィールを読んで頂きありがとうございます。

そんな目まぐるしい日々が続く中、自分が何故失敗したかなど、過去を振り返り答え合わせしていました。

自分も過去に成功して浮かれてる時は、人の痛みなんて余り気に掛けたことなんてありませんでした。

しかし自分がドン底に堕ちてからは、物事の捉え方が変わりました。

事業をしている人も働いてる人も一見幸せそうな人も、みんな実は1人で抱えていて人に打ち明けられる環境が無かったり、解決策は本当は、いくらでもあるのに自分独りでは見つけられなくて、自暴自棄になり、弱い人は、うつ病や自殺などに繋がっているんではないかと思い、逆にそれを受け止めれる身近な環境やサポートできる何かがあれば、少しは変わるんじゃないかと思い今の会社を設立しました。

長文最後までお読み頂きありがとうございました。

気さくな性格のため気になって頂ければ、お気軽に、LINEトークからコンタクトくれればと思います。

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